臓器提供について考えたこと

( ↓ 11/21に書いた記事ですが、数日遅れでアップします)

今日で受傷から5ヶ月。

脳死宣告のその後の話。

 

息子の脳死宣告があった時、真っ白な頭の中にふと浮かんだのは臓器提供のことでした。

先生たちからも話がありましたが、その時には心に決めていました。

ミーティングが終わって、たくさん泣いて、ぼーっとした頭のまま、夫に「臓器提供がしたい」と伝えました。

 

我が子が脳死宣告をされて、即座にそんなことを考えるなんて、と思われるかもしれません。

もちろん脳死は到底受け入れられるものではなく、信じたくもありませんでした。

でも、先生たちが宣告にいたるまであらゆる可能性を探っていたのも知っていたし、99%間違いないと言われて、まさかそれが本当に間違っているなんて思わなかったのです。

信じたくはない、でも、もしも息子がいなくなってしまうなら、身体の一部でもこの世に存在していてほしい。

“息子がどこかで生きている”という現実が欲しい。

すがるような気持ちでした。

 

夫の返事は、YES。

わたしがそれを望むならそうしよう、と言ってくれました。

後々聞いてみると、夫の純粋な判断であれば、NOだったそうです。

色々な思いがあったと思います。

でも、夫はその場でYESと即答してくれました。

わたしが息子のことについての望みを叶えることが、夫が望むことだったからです。

私の判断に100%同意するし、それは心からの賛成だからと言ってくれました。

 

ただ、あの時のわたしにはそれが少し苦しかった。

 

 

“臓器提供したい”と夫に伝えた気持ちに少しの迷いもありませんでしたが、時間が経つにつれ、当たり前のことに思い至りました。

“息子はこのことをどう思うんだろう。”

まだ意思決定できない幼い息子のことを決めるのは、全て親である私たちの責任です。

でも、息子の身体は息子のものなのに、その一部だけでも存在していてほしいなんて、親のエゴなんじゃないか。

そもそも「臓器提供したい」なんて、わたしが言っていいことなんだろうか。

 

日本には、6歳未満の臓器提供は8例しかありませんでした。(2018年11月現在は9例)

改正移植法が2010年に施行されてからもう随分経つのに、症例が少ないのには理由があるはずです。

そして、いざ臓器の摘出手術になった時に、息子は本当に痛みを感じないのか。

臓器移植のコーディネーターには脳死状態では痛みは一切ないと説明されたけれど、それに反対の立場を取っている医師も一定数以上いることを知りました。

もしも痛みを感じていたらと思うと、心底ゾッとしました。

これだけ苦しんでいるのに、まだ苦しませることになるのかと。

当たり前ですが、摘出手術には立ち会えません。

どんな最期を迎えても、待つしかありません。

怪我をした時、痛くて怖くて、息子がママに一番そばにいてほしかった時にいてあげられなかったのに、命が尽きる瞬間すら手を握っていてあげられないのか。

 

でも、臓器提供すれば助かる命がたくさんあることも、どんなに望んでも望んでも手に入れられずに苦しんでいる人がいることも知っています。

ここで命が終わる息子が、何かを成し遂げる、この世で生きた証を残す、最初で最後のチャンスかもしれない。

息子の人生について、生まれてからそれまでのこと、消えかけている未来のこと、全てに思いを馳せました。

母としてどうすべきで、何が正解なのか。

 

それぞれの宗教の見解にも目を通しました。

仏教、神道、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教。

思春期に自分の存在意義に悩み、あらゆる宗教や哲学関係の本を読み漁っていた時期がありましたが、その時と全く同じことをしていました。

わたしたち日本人は、一般的に冠婚葬祭以外で信仰を意識して生きているわけではないけれど、自分の手に負える範囲を超えた瞬間に、人智の及ばぬ何かに目が向くんだなと実感しました。

臓器提供を強く推奨している宗教もあれば、禁忌としている宗教もありました。

 

わたしは自分がどうしたいのか、全くわからなくなりました。

 

夫に「やっぱりやめる」というと「じゃあ、やめよう」と言い、「やっぱりやりたい」と言うと「いいよ、やろう」と言いました。

わたしの望みに100%同意するという姿勢は崩れませんでした。

夫の気持ちは、十分すぎるほどわかっていました。

 

袋小路にはまり、実家の父にも相談しました。

「1ミリでも迷いがあるなら、やめた方がいい」

きっと息子が生まれるまでのわたしなら、そのアドバイスに従っていたと思います。

今まで何かを決断するときには、父ならどう判断するかという思考が常に頭の片隅にあったからです。

でも、このことについては別でした。

いっそのこと誰かに決めてもらいたいと思いましたが、息子のことはわたしが決めなければいけないんだとわかっていました。

そして、きっとどちらを決断したとしても、後悔はするんだと思います。

 

悲しみに溺れそうになりながら、連日連夜考え続けて、数時間毎に意見が変わるわたしを見かねた夫が言いました。

「般若心経を読んでみようよ」

何かヒントがあるかもしれない。

聖書でもコーランでもよかったのかもしれませんが、馴染みのない中でも一番馴染みある般若心経を一緒に読みました。

そのままでは理解できないので、現代語訳と解説を、何度も何度も読み返しました。

頭はすっきりしました。

ようやく決断できたと思っていました。

 

 

でも結局、意思とは別にぐるぐると思考は回り続け、脳死宣告が撤回される最後の最後まで、決断はできませんでした。

そして4日後の朝、夫が触り続けてい左耳の刺激に、わずかに息子が反応したのです。

「脳死は撤回されても、厳しい状態には変わりありません。意識が戻らないかもしれない、寝たきりで動けないかもしれない。普通に生きられるとは思わないでください。」

わたしたちが喜びすぎないようにという配慮だったと思います。

その言葉には少なからず肩を落としましたが、実際言われていた状態よりはずっと良くなって、できないことへの落胆よりも、進歩の喜びの方が大きいです。

 

 

わたしは家族が思い悩まなくていいように、臓器提供の意思表示をしました。

今でも、あの4日間考え続けたことへの答えは出ていません。

脳死宣告

息子が受傷して4ヶ月です。

日本はすっかり秋になりました。

毎日が一瞬で過ぎていきます。

息子の回復にできるだけ良いことをと情報収集し、リハビリに励み、日々を駆け抜けている感じがします。

いつかこの生活が落ち着いて、日常取り戻し、今の幸運を忘れてしまう日が来るかもしれません。

自分の不幸を嘆く日が来るかもしれません。

その時のために、書いておこうと思います。

 

 

息子が脳死宣告をされたのは6月29日、受傷してから9日目のことでした。

こんなに早く宣告をされるとは夢にも思っておらず(夫はミーティングがあると聞かされた時点で覚悟していたそうです)、今後の話をするから話し合う場を設けたいと言われたわたしは、一字一句逃してはいけないと、iPhoneの録音機能をオンにしていました。

まだ、聞き直すこともできず、消すこともできていません。

録音は、全部で26分37秒。

あの時の気持ちを思い出しました。

 

ミーティングルームに入ると、先生たちが6〜7人並び、とても重苦しい雰囲気。

前置きは短く、ICUの担当医が、

We believe he is brain dead.

と言ったのを覚えています。

そして、脳神経科の医師が、その判断にいたるまでの検査結果など、あらゆる可能性を探った経緯を説明して、

99%、息子さんは脳死です

と言ったのです。

そして、脳死判定テストの日にちは私たちが決められること、テストは2回行われ間違いがないよう確認されること、2回目のテストが終わった時点が法的な死亡時刻であること、納得するまで待つけれどそれまでに息子の命が先に尽きるかもしれないこと、臓器提供という道があることを説明されました。

私たちは意外と冷静で、本当にもう手立てはないのか、可能性は1%もないのかと聞き、残念ながらありません、という答えをもらったように思います。

その場に並んだ他の科の先生たちも、もうこれ以上治療の余地はありません、という答えでした。

それ以上言葉もなく、ミーティングは終了しました。

 

 

先生たちが部屋を出て行った後、夫婦で顔を見合わせて泣きましたが、頭は放心状態で何を考えていたか、あまり覚えていません。

 

 

正直、それまでの経過でかなり厳しいことは理解していました。

それまでの1週間ちょっと、ベッド脇から離れずに息子の様子を見ていたので、その可能性を考えなかったわけではありませんでした。

血圧や心拍数は恐ろしいほど乱高下し、ICPという頭蓋内圧の値は平均値をはるかに超える高い数字が長期間続いていました。

痰が鼻や口につまらないように吸引する時や体の清拭の度に、体が悲鳴を上げているかのように、ICPが急上昇しました。

頭蓋骨を外して脳圧を逃しているはずの頭は膨張し、体位変換も数センチずつしかできないため、床ずれで後頭部に血が滲んでいました。

瞳孔はほぼ開ききって、光への反応はなく、その他の生体反応も全くなし。

丸一日モニターしていた脳波も振れなかったのです。

先生たちも毎日何度も様子を見にきては、体の反応をテストしていて、その度に何か変化があるか聞いたものの、答えはいつも同じ。

状態に変化はありません。

 

触る隙間がないほどに点滴や管で覆われた体を指先で撫でながら、なんとか目覚めてほしいと耳元で声をかけ続けていました。

でも、身体中パンパンに腫れ上がって、人相もわからなくなってしまった息子。

その姿がかわいそうで、かわいそうで、胸が潰れそうでした。

早くこの痛みや苦しみを取り去ってあげたい。

だから、脳死を宣告され、恐れていたことが現実になってしまって、とめどなく涙は溢れましたが、でも、この苦しみから息子は解放されるんだとも思ったのです。

 

 

つらかったのは、脳死と宣告されて、住んでいたコンドミニアムに初めてシャワーを浴びに帰ったときでした。

息子が元気に部屋で遊ぶ姿が、まるで幻想のように浮かびました。

クローゼットの扉を何度も開け閉めしながらいたずらっ子のように笑う姿が浮かんで、ヨチヨチと覚えたてのあんよでリビングを歩き回る姿が浮かんで、テラスから見える電車を指差して熱心に話しかけてくる姿が浮かんで、どうしようもなく悲しい気持ちになりました。

廊下で、夫が堰を切ったように泣き始めました。

家中に響き渡る大声で、床を転げ回るように泣いていました。

わたしたちは悲しくて、悲しくて、悲しくて、息子がこの世からいなくなることが耐えられず。

溺れそうになっていました。

 

 

まだ息子は笑わないけれど、楽しそうな表情を見せてくれることがあります。

ママとはわからないかもしれないけれど、抱っこをすれば手でギュッと掴んでくれるようになりました。

命は、なんて尊いんだろうと思います。

あの時、もう生きていけないなと一瞬でも思ったこと。

反省しています。

誰しもが誰かの息子や娘であり、誰かの大切な存在であり、ただ生きていかなければならないことを、今では知っているからです。

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あの日

息子の受傷の原因については未だ調査中で、ここに書くことはできません。

 

わたしが駆けつけた時には、息子は嘔吐を繰り返していて、目はぐるぐるあらぬ方向を向き、ほとんど意識をなくした姿になっていました。

その時点では特に出血などもなかったため、どこが悪いかもわからず、でも命に関わる状態だということは明らかでした。

頭部外傷だとわかっていたら、なるべく動かさないようにして救急車を呼ぶなり、もっと良い対処の仕方があったと思います。

後悔してもしきれません。

でもあの時はとにかくパニック状態で、一秒でも早く病院に行かなければと、息子を抱えてタクシーに乗り、体を揺すり名前を呼び続けました。

腕の中で、どんどん動かなくなっていく息子の体。

顔面蒼白で、時々発作のように手足がググッと不自然に伸びていました。

わたしは怖くて怖くて、全身の震えが止まりませんでした。

今でも思い出すと涙が出てきます。

かわいいわが子のあんな姿は、二度と見たくありません。

息子を抱えて大声で叫びながら病院に駆け込み、あっという間に処置室は戦場のようになりました。

ベッドの上で真っ白な顔で痙攣している息子を、たくさんの人が取り囲んでいました。

その光景はまるで現実味がなく。

世界が足元から崩れていくようでした。

 

負けず嫌いで、夢中になったら一直線で、同じ月齢の子と比べても運動量が格段に多かった息子。

あんなに元気に遊んでいたのに。

朝、泣きながら「ママ、ママ」と手を伸ばしていたのに、振り払うように離れてしまったことを、本当に後悔しました。

どんなに痛かっただろう。

どんなに怖かっただろう。

想像すると頭がおかしくなりそうでした。

もしも、これが避けられないことだったなら、せめてすぐ側にいてあげたかった。

息子が、今にも抱っこをせがんで、足元にくっついてきそうな気がしました。

ふと目をあげると、そのあたりをハイハイしたり、よちよち歩いたり、そんな幻想が頭を離れませんでした。

こうしていたら、ああしていたら、何かが変わっていたかもしれない。

 

息子の身に起こったことは、世間的にどう判断されても、母であるわたしの責任です。

何があっても、守ってあげなければいけなかった。

誰になぐさめられても、それは違うよと言われても、一生自分のことは許せません。

でも、どんなに思っても、息子に代わってあげることはできません。

謝っても謝っても、謝りきれません。

ごめんね。

ごめんね。

ごめんね。

 

 

息子を病院に運び込んだのが、夕方の6時頃。

CTを撮り、頭蓋骨骨折と広範囲にわたる硬膜下血腫と判明し、すぐに緊急手術へ。

手術中に何があってもおかしくないと言われていたので、手術の成功を知って、初めて安堵し膝から崩れ落ちました。

しかし、その後、脳の膨張が激しく、バイタルも非常に不安定な状態になり、「命が助かるかわからない。例え助かっても重い障害が残る」と医師から告げられました。

朝までに、本当にいろいろなことがありました。

怪我の原因についても即座に調査が入ったため、思い出したくないほど、精神的につらい時間でした。

 

あの日はちょうど夫が出張で日本にいて、息子のそばにいたのはわたし一人。

最初に運ばれた処置室の外から、パニックのまま夫に電話しましたが、急に息子が命の危機にあると聞かされ、訳が分からず本当に怖かっただろうと思います。

即座にチケットを取り、その日の深夜便で帰ってきてくれました。

朝、夫の顔を見て、心の底からほっとしたのを覚えています。

 

 

あの日、

今まで何の疑いもなくそこにあった当たり前の世界が、一瞬で消え去りました。

もしも時間を巻き戻せるなら、と思わない日はありません。

でも、今のこの現実も、紛れもなく、かけがえのない息子との日々です。

少しずつ、私たち家族は新しい時間を生きています。

受傷から2ヶ月間の経過

当時のメモを元にしています。

6/21(木)

  • 夕方、左側頭部外傷により救急へ搬送。頭蓋骨骨折と左硬膜下血腫で緊急手術を行う
  • 手術は成功し、薬で鎮静状態に。しかし、術後左脳の腫れが酷く、医師に「助かっても重い障害が残る」と告げられる
  • ICP(頭蓋内圧)25〜45の状態が4日間ほど続く ※脳の腫れのこと。ICP5〜15が正常値

6/25(月)

  • ICPが20以下まで下がる

6/26(火)

  • 少しずつ鎮静の薬を抜き、脳波の測定を開始
  • MRIを撮影。左脳が壊滅的な状態、左脳に圧迫されて脳幹と右脳上部も損傷していることが分かる

6/29(金)

  • 鎮静から覚めたと判断されるが、脳幹反応、脳波の波形の変化が全くなく、医師から脳死と告げられる
  • 7/3の夫の母・姉の到着を待って、7/4頃に脳死テストを受けると決める

7/3(火)

  • 左耳を触ると血圧や心拍が上昇、口が少しだけ動くのを確認
  • 脳死が撤回される
  • 医師からは「脳死ではないが、意識が戻るかわからない。生きてはいるがほとんど動けないと思ってください」
  • 左手は握るような動作、左足も反応あり、右手右足もかすかに反応あり

7/4(水)

  • まばたきをする
  • 人工呼吸器は装着しているが、自発呼吸を始めたのを確認

7/5(木)

  • 右目の開きが大きくなり、寝起きのタイミングがわかるように(左目は閉じたまま)
  • 自発呼吸安定がさらに改善
  • 声に反応するような様子を見せる

7/8 (日)

  • 人工呼吸器を外し、経過良好

7/9(月)

  • ジストニアの症状がかなり強く出る
  • リハビリ開始
  • 両手足が伸長したまま固まらないように、関節を曲げた状態で固定するスプリントを装着(帰国まで4時間ON、4時間OFFで装着し続けた)

7/11(水)

  • ICUを出て、High dependency wardに移る
  • 意識はうっすらとありそう
  • 目は見えていない感じ
  • 耳は大きな音には反応する
  • 初めて小さな声で泣いた

7/14(土)

  • 点滴のための注射針を全て抜いた。体につながれた管は、ミルクを入れる胃管のみ

7/18(水)

  • クラウドファンディングを立ち上げる

7/19(木)

  • 初めて左目をうっすら開けた
  • 午前中にFacebookでクラウドファンディングを告知

7/20(金)

  • STのリハビリで、ベビースナックをモグモグ。水の飲み込みはまだ苦手
  • 大きな声で泣く

7/21(金)

  • クラウドファンディング達成

7/22(土)

  • 夜中のぐずりが激しく、ほとんど眠れていない

7/24(月)

  • 再手術で、頭蓋骨を元に戻した。術前、頭の形が歪になるかも言われていたが、無事きれいな形に戻る

7/25(水)

  • 相変わらず機嫌が悪い日が続いている。全体的に具合が悪そう

7/26(木)

  • 受け入れをお願いしていた日本の病院と全く話が進まないので、別ルートで新たな病院を当たる

7/27(金)

  • 2つ目の病院に、早速受け入れOKをもらう
  • リハビリでは体の左側がよく動くように
  • 体のこわばり、緊張がきつく、左肘と左足首が曲がらない

7/28(土)

  • 寝ぼけて体を伸ばした。全身運動!

8/1(水)

  • 顔を近づけると、左手で触りたがる→出来なくて不機嫌に。触らせてあげると落ち着く

8/5(日)

  • 深夜便でシンガポールから医療搬送。シンガポールの医師が付き添い。眠くなる薬を分けて投与してくれたおかげでよく寝てくれたが、バシネットでは2時間ほどしか寝てくれず、あとは抱っこ寝で乗り切る

8/6(月)

  • 朝、新宿にある病院に到着
  • 酸素飽和度をモニターし始めて、寝入りに酸素が50台まで落ちるように(※90〜100程度が正常値)。苦しくなって、泣いて100まで自力で戻す

8/7(火)

  • 時々、左目がかなりぱっちり開くが、左右の黒目が受傷前よりも離れている

8/16(木)

  • シンガポールで使っていた薬を切り替えたり、量の調節をした途端に呼吸の問題がほとんどなくなる。(医療搬送の1週間ほど前から酸素はモニターしなくなっていたので、ずっと機嫌が悪かったのは呼吸が原因だった…?)

はじめまして、のご挨拶

1歳3ヶ月の息子Toyaが海外で受傷し、今日でちょうど2ヶ月が経ちました。

頭蓋骨骨折と左硬膜下血腫の重症で、一時は脳死と告げられたところからの回復でした。

海外での手術や治療、入院にかかる費用はとんでもなく高額です。

それを支払うために貯金や親の援助や保険など、頼れるものは全て頼りましたが、日々積もっていく請求額は自分たちの力では払いきれないほどに膨れ上がっていました。

もちろん海外に住んでいるからといって、日本政府が何か手助けしてくれることはありません。

困り果てて、恥を忍んで現地の日本大使館まで行きましたが、何かサポートを得られるわけもなく…

全て自己責任の世界。

わかっているつもりでしたが、全く準備が足りなかった。

息子が生きるためにはお金がいる、でも情けないことに支払い能力がない…悩んだ末に行ったのがクラウドファンディングでした。

https://give.asia/campaign/help-revived-baby-toya-fight-on

国内外の友人たちから私たちのことを知らない方々まで、本当にたくさんの方に助けていただき、なんとか無事に日本に帰ってくることができました。

それが、2週間ほど前のことです。

ここは、息子に心を寄せていただいた皆様に、その後の様子をお知らせする場にできたらと思っています。

 

また、受傷直後、パニックで心細く不安な気持ちでいたときに助けられたのは、ブログ記事でした。

息子のために今後どのように動いたらいいか、一番参考になったのは、同じような境遇にあわれたママたちの生の声です。

このようなことは起こらないことが一番ですが、このブログが今後同じような経験をされる方の力になれますように。

 

そして、日々成長を見せてくれている息子の様子を忘れないためにも、記録を残していこうと思います。

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